介護士ナオミ  ①環境は自分で変れる!

 今を変えれるのは、未来への夢と自分を信じる強い思い!

私の名前はナオミ21歳、昔は色々あって少しハジケていましたが、今はごく真面目な普通の子と自分では思っています。

あれは小学校3年生に入学した年、私の父親は親が瓦職人の棟梁をしており、亡くなった父親の後を継いだ2代目で5人の従業員を抱えた小さいながら親方社長をしていました。ちょうど父の仕事に時間が取れたのか、父が私の誕生日祝に妹と親子4人で前から行きたいとおねだりしていたユニバーサスルスタジオジャパンに珍しく家族で行った時の楽しかった記憶が、父との唯一の思い出で残っています。

裕福では有りませんでしたが庭のある一軒家で、母は妹2歳の育児と会社の事務手伝をしておりました。一般のサラリーマン家族と比べると、少しは贅沢も出来ていたかの様に思います。

その年は大きな台風があって何やら父は忙しくしていたことを覚えています。学校から帰ると自宅兼事務所の中に母は居らず、待っていたのかいつも私を可愛がってくれる職人の安さんが、「オヤッさんが屋根から落ちて怪我をしたのでお母さんは病院に行っている」と聞かされカバンを置く暇もなく、直ぐに安さんの運転する自動車に乗せられ病院に向かいました。

病状は頭から強く打ち意識不明の大怪我で、母は父のベットの横で泣疲れたのかボー然といていました。沢山の器具を付けて眠っている父親に何か不思議な感じがしていましたが、母の泣き腫らした顔を見ると私も悲しくなったのを覚えています。

それから4カ月経った頃、病院を退院した父は命を取りとめましたが、家の中で暮らす父は右足が不住で仕事に戻る事も出来ず、少しろれつの回らない言葉で母を怒鳴り散らし、それでも足りないのか暴力を振るう毎日で、お酒と賭け事で憂さ晴らしをしていたかと思います。時折出て行くと帰らないことも多くありました。

従業員も時が経つにつれ辞めていき最後の安さんも辞めた時には、会社は大きな負債が残り倒産する羽目となっていました。銀行から自宅も全て取り上げられ、それでも未だ負債が残っていたようです。

その年が過ぎ、まだ寒さが残る季節でした。妹がインフルエンザにかかり熱が有りまだ動かしてはいけないときでしたが、自宅を無理に追い出されて、古い六畳と三畳の台所だけの狭い借家に引っ越しをしていました。畳はあちこちすり切れめくれ歩いたら音が出る今にも壊れそうで汚い住まいでした。

時折帰ってくる父は変な女の人を連れてきて、妹を抱いた母と喧嘩、怒鳴り合い、そしてお金をせびり無いと分ると出て行き、そしてある時から帰ってきませんでした。

私たち家族も何とか1年は母が持っていた物を売りつないでの生活でしたが、どうにもならず母も働きに出る事になりました。働くことが苦手な母は色々な職を転々としていましたが続かず、とうとう夜の小さなスナックで働き始めました。

この頃から母の生活がすさんでくるのが見られ、ある時は酔って知らない男の人と一緒に帰って来て、自宅の狭い六畳の間で男が泊まっていく事も有りました。そんな事が何度か続いた後に、今度は別の男が自分の家の様に住み着いて、パチンコ代と言っては母に無心し出さないと暴力で無理やりお金を取り上げ出て行きます、残った母は大きな声で喚き散らすのがいつもです。この異常な光景を見ながら怖さと惨めさで、母の無能さへの腹立ちが募るばかりでした。

中学生の私は、家を見ない母に代わって4歳の妹のお守りと家事をこなす毎日でしたが、一年が過ぎ中学三年の高校進学を迎える時期になると、辛くて苦しい日々から逃れようと遊び仲間のグループに入っていきました。中学三年での授業はあまり出ませんでしたが何とか卒業はできました、卒業しても何もする事が無くアルバイトをしては仲間と遊んでいました。

そんな折母は以前も流産して、今度もまた誰の子か判らない子を母が身ごもり男の子を出産しました。出産後母の体調は優れず、今までの酒の呑み過ぎか原因なのか肝臓病でまともに働くことが出来なくなり、生活が出来ない状況に追い込まれ、家族の全てが崩れていく目の前の現実が、強烈な映像となってはっきりと私の眼の中に映し出されました。

赤ん坊のミルクも、6歳の妹の食事も与えられない状態で、未だ男に相手にされない自分を理解せずに男にすがりつこうとしている、人として未熟な母を見ていると。私の中に、赤ん坊の弟、6歳の妹、そしてだらしなく何も出来ない母、この私の家族を守るのは私自身しかいないと決心をする強い心が生まれたのです。

これが私を大きく変えた分岐点の様に思えます。

私が今しなければならない事それは、家族を食べさせるためのお金を稼ぐ事、そして妹を学校に行かせる事、母親の養生は出来る限りと決めて仕事を探しに懸命となりました。

高校を出てない私の働き口は多くは有りません。一つ朝の早いパン屋さんの仕事が見つかりました。朝の5時から朝8時までの製造の手伝いです。

その数か月後に近くでスーパーマーケットがオープンしレジ要員の応募が有り受けに行きました。金髪、濃いアイシャード、派手なマニキュアで落とされ、どうしてもとお願いしたら、お客様商売だから身だしなみを整えて来たら考慮しますと言われて、早速、黒髪にし、アイシャードを取り、マニキュアを落とした自分の姿を鏡で見たら、何か恥ずかしくなって笑ってしまいました。

仕事はパン屋さんの朝5時から8時、勤めることが出来たスーパーで朝の10時から午後6時まで、時には残業で午後10時までと時間の許す限り働きました。おかげで何とか食事と家賃は払えて生活をつなぎ家族が生きる事ができたのです。

レジのキャシッャ―の仕事にも慣れ6ヶ月が過ぎた頃、夕方5時からくるアルバイトの高校生と気が合って話す中で、彼女が福祉系高校に通っており、そして保育士を目指している事、将来は好きな子供たちを育てる保育士になり幼稚園の先生として働きたい事、国家試験を受けるために勉強を頑張っている事を聞きました。

今まで私は夢とか目標を持っていただろうか? 家族の為に一生懸命働いているが、自分の将来はどうなって行くのだろうか? このままの私でいいのだろうか?と。 『何かをしなければ、、、私の将来に向けての夢や目標を自分の意志でつかみ取り、彼女みたいに私も夢を持っていいのだと』 との思いが心の奥底から湧き上がるのを知りました。

友人の彼女と次の休日を一緒に取って遊びに出かけ映画を見た後、マクドに寄りハンバーガーとアイスを取って2時間ほど話をしました。彼女の福祉関係の学校では別に学科が有って、将来の希望の職業に付けること。色々聞いている中で介護科が有る事を知りました。

貧しさの中で生きてきた私の出来る事,そしてやりたい事は、人に優しく、弱い人達への手助け、この仕事は自分自身が求めている将来の夢との思いに確信を得る事が出来たのがこの時だったと思います。

後はどの様にしたら福祉系高校に入学する事が出来るかを考え、彼女に手伝ってもらい資料集めから始め、費用、そして入試の方法と問題もありましたが、なんとか翌年に入学し無事に卒業する事が出来ました。友人の彼女は1年前に卒業し国家試験も受かり、園児たちと楽しそうに幼稚園の先生として働いています。

私は彼女から1年遅れで卒業し、介護福祉士の国家試験を受けるべく介護の施設で働きながら頑張っています。卒業までの三年間は相変わらずの朝5時から8時までパン屋のアルバイト、下校後の夕方5時からラスト10時までスーパーでキャシャ―のベテランアルバイト員として信頼され働きました。

おかげで福祉系高校卒業後にスーパーのアルバイトを辞める時には、店長から当社の正社員にとのお誘いを受けたのは私にとっては大変嬉しい成功体験の一つです。

今、私がこの短い生きた歳月の中で知り得た事は、貧しさ、与えられた環境は自分で変えることが出来ると言う事です。

決して他人のせいにすることなく、自分の夢、自分の将来は他人まかせでなく、自分でつくるという思いを強く持ち、そこに向かって真剣に努力をして取り組めば必ず叶うと言う事です。

また一生懸命前向きに努力していると、周りの人が支えてくれることも知りました。

この事は社会に出て仕事をする上で、人と人は共に助け合い支え合う事の大切さを教わりました。

 

今、私にできる介護の仕事で、人への小さな支えになれる事ができたら、私の夢への一歩が進められたとの思いです。

 

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